人は皆、名誉や肩書き・権威を求める傾向があります。
会社に入れば、係長、課長、部長とより上の役職を目指して努力します。
会社は上に行けば行く程、ポストが少なくなりますから、出世レースでは殆どの人が脱落者になり、ゴールに辿り着けるのはわずか一握りの人に過ぎません。
なぜ、人はそのように肩書きや権力を志向するのでしょうか?
それは、出世して高い報酬を得たい、より大きな仕事をやりたい、という動機もあるでしょうが、根本的には他人の賞賛を得たいという気持ちがあるからでしょう。
つまり、より多くの人から認められたいのです。
別の表現をすれば、承認欲求が根本にあるということです。
私の周りを見渡してみても、仕事にガムシャラに打ち込んで頑張る人は、子供の時に親子関係が良くなく、特に母親の愛を十分に受けていない人が多いように思えます。
植物は太陽の光を燦燦と受けて大きく成長します。
家庭の太陽である母親の愛を十分に受けられなかった人は、そのパーソナリティに影を落とし、反動で強い承認欲求を仕事という場で獲得しようとするのでしょう。
その見方をすれば、世間の多くのエグゼクティブは、いわば承認欲求の強い人・欲の強い人の集まりであると見ることができます。
そして、世間一般の人は、ポストが高い肩書きを持つ人程、立派であり、人格者であると見る傾向があります。
しかし、天の邪鬼的な見方かもしれませんが、私は必ずしもそうは思いません。
なぜなら、承認欲求をベースとして活動する人は、満たされない何かを抱えており、それを埋め合わせるために奮闘努力しているからです。
確かにその努力する姿勢は尊いものですが、渇望しては満たし、また渇望しては満たし、という繰り返しだから、心が完全でないと言えるのです。
いつも抱えているその満たされないものは、何か?
それは、愛、または愛情であると言えるでしょう。
別の表現をとれば、潜在的に愛に飢えていると言っても過言ではありません。
出世し、肩書きを得ている人が、全て満たされていないと言っている訳ではありません。
既に満たされていて、他人の承認を必要としなくても、使命感で広く活動をしている人もいるからです。
本当に満たされている人は、他人の承認が不要で、有り余る愛がコアになって活動していきます。
私は、自分自身を立派だとか偉いとか驕った考えを持ったことは全くありませんし、いつももっと人間を磨かなければならないと思うたちなのですが、それでも他人の承認を全然求めていません。
触れ合えるお客様の数も知れたものですが、そのお客様の笑顔が見られればそれが自分の生きがいになります。
ですので、一切の肩書きや権威を求めていませんし、むしろそのような他人が作った評価の枠に当てはめられるのが嫌でたまりません。
手塚治虫の漫画ブラックジャックが、空前絶後の手術の腕前を持っていたにも関わらず、医師免許という資格や病院での肩書を一切求めなかった様に、私も何物にもはめられたくありません。
私に承認欲求がないのは、私自身が他人からたくさん愛されているからなのでしょうか?
私は鈍感なのでわかりませんが、たとえ人様からの愛がなくても、自分自身の存在が愛だから、他者からそれを貰わなくても、愛を他の人達に分け与えていくことができます。
私自身、不足はなく満たされているため、愛を貰わなくても、胸の内からとめどなく湧いてきます。
ドバドバの源泉かけ流しのようなものです。(←いいたとえ!)
私自身の存在の中核が愛であるため、それが燃料となり、承認という他者から愛を貰う必要なく活動を継続していくことができます。
敢えて他人からの承認を求めなくても、自分の生き方を貫いていけば、それを見てくれている僅かな人たちが、自然と認めてくれるようになるでしょう。
承認は勝手に後からついてくるものと思います。
また私は自身を誰よりも運が良いと信じています。
人生の流れに乗って流れていくだけで、自然と最適な地に辿り着けると確認しています。
もちろんその過程ではそれなりに精進をするのですが、敢えてゴリゴリに我を通して流れを変えようなどと考えることはありません。
人生の力を抜いて、すべては神にお任せです。
ですので、同業者がどうしてるとか、世間の潮流がどうだとかは、我関せずで、全く気になりません。
常により高い自己を志向して、孤高に仕事に向き合っています。
そうしていると次々に神は、私に相応しいお客様を送り込んできます。
自分の能力や力が向上すればする程、なぜか難度の高い大変なお客様が増えてきますので、決して楽はさせてもらえません。
だから、私の場合は自分自身と神と常に向き合って生きており、殆ど他人の目を気にせず、他人の評価にも関心がないのです。
戦前の右翼団体「玄洋社」の親玉・頭山満翁は、中村天風の師でもありますが、
「一人でいて寂しくない人間になれ」
と言いました。
政治の世界では、頭数を求めて大同団結したり群れたりするのが常ですが、それは政治の世界だけではなく、会社の中でもそうですし、巷のママ友の群れでも同じでしょう。
その中で、なぜ頭山翁がこう語ったのか?
それは、
1000万人行くとも己の信じる道を貫く気概を持たなければならない
他人に迎合し、なびくのではなく、自分自身が光となってそれを拡げなければならない
という真意ではないかと想像します。
他人が自分をどう見るか・どう評価するかが大切なのではなく、自分がどうあるかが大切ということなのです。
自分は何をせずとも多くの人を感化した頭山満翁の様に、私も自身から発する光=愛で少しでも多くの人、そして地球にエネルギーを与えていける様に精進したいものです。