夢の先には絶望しかない

現代社会では、「夢を持って生きろ」とよく言われます。
夢を持ち、目標を立て、それに向かって努力奮闘し、夢を叶える生き方は、多くの人の共感を呼びます。

それはそれで素晴らしいことで、私も長年そうして生きて来たのですが、私は昔からどことなく違和感を覚えていました。
「それで本当に幸せになれるのだろうか?」という疑問があったのです。
今では、夢を実現した先には絶望しかないというアイロニックな哲学を持つようになり、夢を持って生きることそれ自体が、思ったより素晴らしい生き方とは言えない、さらに言えば、もう少し深掘りする必要があると思うように至りました。

作家バーナード・ショーはこう述べました。

“There are two tragedies in life. One is to lose your heart’s desire. The other is to gain it.”
(人生には二つの悲劇がある。一つは、心から欲するものを得られないこと。もう一つは、それを得てしまうことである。)

「人生には二つの悲劇がある」という言葉は、彼の戯曲『人と超人』(Man and Superman)の中で登場する名言の一つです。
夢が叶わないのが悲劇というのはわかります。
しかし、それだけではなく、心から欲するものを得てしまう、それはすなわち夢を実現したことであり、それもバーナード・ショーは悲劇と捉えています。

夢が叶わないのは悲劇、それが叶うのも悲劇。
となれば、夢を持って生きること自体が悲劇になります。

一般的には、「夢を叶えたなんてすごいじゃないか!」「羨ましい」と、いかにも短絡的な見方をします。
しかし、本当のことを言えば、夢を叶えた先には絶望しかないのです。

私のような中年によく起こることで、ミドルエイジクライシスというものがあります。
これは人生の中年期(主に40代から50代)に直面する心理的な危機や不安の状態を指します。
この時期に人は、自分のこれまでの人生や未来について深く考え、不安や焦りや後悔を感じ、「このままでよいのだろうか」と葛藤します。
そして、あらゆることが虚しく思えたり、無気力になったりします。

最近それをカミングアウトしたのが、中田敦彦さん(オリエンタルラジオ、YouTuber)です。
彼は慶応大学卒業後、芸人として短期間で目覚ましい成功を遂げ有名になりました。
その後YouTuberとしてチャンネル登録者数544万人の「中田敦彦のYouTube大学」というメガヒット教育系番組を作りました。
その他、オンラインサロン「PROGRESS」の運営や、書籍の出版、アパレルブランド「カール・フォン・リンネ」の展開など、多岐にわたる活動を展開しています。
これらの事業からの収入で、総資産が10億円とも30億円とも言われています。
まぁ、人も羨む成功者と言えるでしょう。

それでいて、42才の若さにもかかわらず、ミドルエイジクライシスになりました。
それらの華々しい成功が空虚に感じられ、YouTuberを辞めることを家族に相談したと語っています。
結局、息子さんの一言でYouTuber引退は思いとどまるのですが、彼が言うには、「成功して成し遂げたいことをすべて達成した時、そこには絶望しかなかった」と言うのです。

実際のところ、カミングアウトした中田敦彦さんだけではなく、世の中にはそのような人がたくさんいるようです。
中田敦彦さんのような社会的な成功者でなくても、子育てにいそしんできた専業主婦が、子どもが成人し巣立ってから、急に心が空っぽになってしまったという話はよく耳にするところです。
それもある意味、子どもを立派に育て上げるという夢が叶った後にもぬけの殻になってしまったという悲劇にも思えます。

では、なぜそのような虚しさに飲み込まれてしまうのでしょう?
それは、他人の評価、または他者に依存した満足感・幸福感を夢として追求していたからです。
中田敦彦さんの行動の源泉は、他人を見返して賞賛されることにあったそうです。
「すごい人だ!」と褒められたかったと言います。
しかし、自分が実現したい夢をすべて叶えた今、それを超える夢がもう出てこない、エネルギーも湧いて来ないということになり、ミドルエイジクライシスに陥りました。
それを語る彼の表情もどこか空虚というか鬱っぽいように見えました。
私はギラついている人は好きではないので、どこか憑き物が落ちたような穏やかな表情の中田敦彦さんには却って好印象を持ちました。

他者からの評価に依存している夢は、それを叶えた時しばらくは興奮してアドレナリンが出て高い幸福感が持続しますが、やがてその幸福感に慣れて麻痺するようになり霧消します。
他者依存型の夢には、そのような儚(はかな)さが伴いますが、自己完結型の夢にはそのようなことは起きません。

自己完結型の夢とは何か?
それは志を持つことです。
志という字を分解すれば、士(もののふ〔武士〕)の心と書きます。
武士道的な響きを持つ志。
「夢を持つこと」と「志を持つこと」は似ているように思えますが、その一般的意味には明確な違いがあります。

夢を持つこととは、自分が実現したいと願う理想や未来のイメージを指します。
心の中で描く希望や憧れのようなものです。
「できたらいいなぁ」というような軽い気持ちで表現されることもあります。
しかし、得てしてエゴに基づく個人的な願望であることが多いものです。
例えば、

「有名な歌手になりたい」
「大きな家に住みたい」
「世界一周旅行をしたい」
「投資で1億円貯めてFIREしたい」
「出世して社長になりたい」
「年収1000万円以上のイケメンの旦那さんが欲しい」

等々。
根本的な動機が名誉欲や金銭欲や物欲で、夢はその拡張です。
これらの夢からは利他の精神はあまり感じられません。

一方、志を持つことは、目指す目標や大義のために心を決め、それに向かって努力する決意や意志を指します。
夢に比べて、強い意志と責任感を伴い、自分以外の他者や社会に貢献したいという思いを含みます。
例えば、

「音楽を通じて世界中の人々を幸せにしたい」
「自分の力で地域の教育環境を改善する」
「持続可能な社会の実現に貢献する事業を立ち上げたい」
等々。

志は、行動や挑戦を引き起こす推進力となり、是が非でもやり遂げなければならないという強い意志を伴います。
現実的でありつつも、高い目標を掲げることが求められます。

夢と志の主な違い

項目
目的自分の願望や理想の実現 自分と他者や社会への貢献
具体性抽象的・漠然としていることが多い具体的で現実的
行動力 必ずしも行わない行動や努力が必須
時間軸短期的な希望や楽しみが含まれる長期的な目標や計画が必要
責任感 責任感は少なめ自分や他者に対する責任が強い


夢は、心の中に描く希望や楽しみや快楽であり、自由な発想が可能な一方で、実現するかどうかは必ずしも重要ではありません。
それに対し、志は自分の信念や価値観に基づいた具体的な目標であり、それに向けて努力し、行動する決意を伴うものです。
つまり、夢は「描くもの」であり、志は「決めるもの」とも言えるでしょう。

私はかねてからどこか田舎に修行場を作り、そこでファイヤープージャや瞑想などをして鎮護国家や病気平癒の祈りを続ける人生を歩みたいと公言しています。
それは、そのような夢を持っているのではなく、必ずやり遂げなければならないと自身の内で設定している志であります。

「志」の中でも「大志」となると、さらにスケールが大きく、個人の枠を超えた高尚な目標や決意を指します。
「大志」という言葉には、普通の志と異なる深い意味が込められています。

「大志」とは、自分だけでなく社会や他者のためにも役立つ、壮大で高い長期的な目標を掲げ、それを実現しようとする意志や決意を指します。
個人の成功だけでなく、社会や人類全体に良い影響を与えることがその中核にあります。
大志を実現するためには、大きな努力や時に自己犠牲が求められることがあります。
それでも必ずそれを達成する、失敗はありえないという覚悟が必要です。
さらに、大志は人生に深い意味を与えます。
それは使命感であり、天命を果たすという意味付けです。
「私はこの大志を成し遂げるために生まれて来たのだ」というのが天命です。
大志を持てば人生がブレません。
日々の行動や選択に一貫性を与え、困難に立ち向かう強い力をもたらします。

普通の志と大志の違い

項目大志
目的自分や身近な範囲の目標社会全体や歴史的視点での目標
スケール個人レベルの達成や成功国家、社会、人類規模の大きな変革
行動の範囲 自分の努力で完結することも多い他者や組織、時には国や世界を巻き込む
影響力限定的(家族、コミュニティ)広範囲(社会全体、後世)
責任感責任感は少なめ 自分や他者に対する責任が強い


先に述べた中田敦彦さんのことを辛辣に評価するとすれば、今までの彼の事業には夢はあったものの、志ではなかったと言えます。
「見返してやりたい」「賞賛されたい」「チャンネル登録者数を◯万人まで増やしたい」というような動機はある意味自分本意の利己的なものです。
志に付随する高尚な精神は感じられません。
それだから、ミドルエイジクライシスに陥ってしまったのでしょう。

ところが、面白いことに中田敦彦さんはミドルエイジクラスを経て、茶道に傾倒するようになったと語ります。
茶道は一年二年やったところで、入門レベルに過ぎず、10年以上やってようやく何となくわかって来たと言える芸道の世界です。
茶道にはお点前(茶をたてる作法)や道具の扱いなど、極めて繊細で高度な技術が求められます。
また、「和敬清寂(わけいせいじゃく)」という理念が重要視されます。
これは、和(調和)、敬(尊敬)、清(清潔)、寂(静寂)を追求する精神的な修養です。
さらに、茶道は日本文化の美意識を体現しています。
道具の選び方、季節感、空間の演出など、総合的な芸術といえるでしょう。
これらは技法や感性は長年の修練を通じて習得されるものです。
中田敦彦さんは、簡単に到達できない深みがあるところに魅力を感じ、茶道について嬉々と語っていました。

茶道や華道や武道・・・このような修道の人生は、生涯を貫いて続けていくもので、ここがゴールというものはありません。
一生が修行なのです。

私がやっている気功や瞑想もこの分野に入ります。
一生かけて道を極めていくもので、もっと大きく見れば、過去世からの続きであり、さらに来世まで続けていくものです。
私は以前に過去世が見える人から「平安時代に先生の施術を受けたことがあります」と言われたことがあります。
どこまで信憑性があるかは分かりませんが、本当なら随分長く飽きもせずにこの仕事をやっているものだと思います。
ぼちぼちベテランの域に入っているのでしょうか。

夢の先には絶望があっても、志を持つ生き方や道を修める生き方(修道)には、絶望はありません。
夢が実現した高揚感でアドレナリンが噴出する「やったぜ~!!」というような一時的な興奮や幸福感もありませんが、セロトニンが放出して心が平穏で精神的に充足した幸福感を味わえるでしょう。
それは、一歩一歩歩み小さな気付きを得て成長を実感するところから湧いてくる、静かで持続的かつ内的な歓びです。
決して、他者の評価に依存するものでもありません。

人生に夢を持たなくてもいいのです。
志、できれば大志を持って、自分自身を磨き、人格や精神を高めていく人生を歩んでいきたいものです。

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