お陰様で開業して20周年を迎えました
私が好きな芸術家のブログを見ていたら、「20周年の感謝の言葉」という記事が出ていました。
私は、そのタイトルを見て
「いかん、9月で20周年だったわ!」
と、自分自身の20周年が過ぎ去っていたことに気付きました。
今年の前半までは覚えていたのですが、日々の忙しさにすっかり忘れていました。
独立して事業を開始する時にこう言われました。
石の上にも3年、まずは3年を目指してやりなさい。
3年が過ぎたら次は10年を目指してやりなさい。
当初の目標は3年生き残ることでした。
駅前の店の顔ぶれを見てもわかるように、10年経てば街の風景も様変わりしています。
10年生き残っていることは実に大変なことです。
師匠や多くのお客様や周りの人々のご支援のおかげで、20年という節目を迎えることができました。
本当に自分だけの力ではないと思っていますので、感謝の思いは尽きません。
本当にありがとうございます、厚くお礼申し上げます。
私は浪人をして回り道をしてきた人生ですが、こうして皆さまとご縁が結ばれてお会いすることができたのは本当にありがたく、あの時人生の回り道をしていなかったらそれは叶わなかったので、落伍に見える回り道もしてよかったとつくづく思えます。
人生は短期的視点では分からないものです。
回り道という一見不幸な出来事にも神の意図があったのかもしれません。
20年はゴールでも何でもなく、単なる通過点に過ぎないので、気にとめず忘れてしまっていたのですが、この先も変わらずこの仕事を続けていきたいと思っています。
これから先もどうぞ宜しくお願い致します。
今回は、昔のことを振り返り、気功治療家を目指した理由や、開業までの経緯などを語ってみたいと思います。
ブラックジャックに憧れた少年時代

そもそも私が医学に関心を持ったのは小学校4年生の時でした。
家の近くにある本屋で手塚治虫の「ブラックジャック」を読んだのがきっかけです。
「ブラックジャック」は手塚治虫の代表作ですので知っている人も多いことでしょう。
ブラックジャックとは、間黒男という天才外科医の愛称です。
三流大学出身で医学の世界では本流とはいえない道を歩きながらも、その外科手術の腕前は天下一品と謳われ、メスの力で数々の奇跡を起こし、人を助けます。
ところが、ブラックジャックは医師免許がない無免許医(モグリ)なのです。
絶対不可能と思える困難な手術も難なくこなし人命を助けるのがブラックジャックの真骨頂ですが、問題は治療費が莫大に高いことで一件あたりの手術代は数千万円、高い場合には億単位となります。
それは手塚治虫氏が命というものは価値があるのだと漫画で訴えたかったからかもしれません。
誰にでもそのような高額のお金を請求するかといえばそうではなく、相手によって手術の値段が違ってケースバイケースです。
お金がない人には50円とか非常に低廉な金額で、時には無料で手術をすることも珍しくありません。
ブラックジャックを読んで、小学生の私は「人の命を救うのは素晴らしい仕事だ!」と大きな感銘を受けました。
一見クールで冷たいように見えながら、実は思いやりが深く人情味があるブラックジャックのキャラクターはそのまま私の理想的な治療家像として心に刻まれました。
その「ブラックジャック」に魅了されて小学校が終わると本屋に通い、当時は漫画を買うお金もありませんでしたので立ち読みをしていました。
漫画本には読まれないようにビニール袋がかかっていましたが、ご丁寧にもそれを破り捨てて全25巻を何度も読み返しました。
時には破り捨てた袋が見つかって店員さんに怒られたこともありましたが、それでもふてぶてしくも続けたのは余程心に響くものがあったのでしょう。
そしてブラックジャックに憧れて「将来はモグリの医者(無免許医)になる!」と心に決めたのでした。
そうしたら、実際モグリの医者のような仕事になりました。
子供の頃になりたかった夢は、長い時を経て実現するものです。
気功治療家は、そもそも公的資格はなく、健康保険制度もありません。
無免許医のようなものです。
そして、ブラックジャックがどのような病気の人も手術で治すのと同じく、気功治療家もどのような病気の人でも施術して治すのが仕事です。
安くないお金をいただきますので、残念な思いをして帰っていただく訳にはいきません。
まさに腕一本で、お客様を治せるかどうかの真剣勝負を重ねてきました。
医師になるためには医学部へ進学しなければならず、高校では理系科目を選択するところですが、私は数学が苦手でからっきしできませんでした。
そのため高校に進学すると文系クラスに進むことになり、医学部へと進む道は必然的に閉ざされました。
そうなるとしばらく医師になるという夢は潰(つい)えて、他の多くの人のようにサラリーマンとして企業に勤める道に進んで行ったのです。
大学卒業後はベンチャー企業に就職し、サラリーマンを10年やりました。
その前半はよかったのですが、後半は上司に恵まれず不遇をかこつ時代となりました。
その頃、自分はここにいて良いのだろうか、自分のやる仕事は他にあるはずだという思いが毎日フツフツと湧いてきて、仕事に100%の力を注ぎこむことができなくなってきていました。
現在の師・仙人師匠との不思議な共鳴
サラリーマン時代の後半は、リゾートに関係する仕事をしていました。
そのため、私は頻繁にリゾート地へ出張することがありました。
仕事の内容はとても好きだったのですが、上司との馬が合わず、非常に強いストレスを感じていました。
同じ部署の中に、うつ病で出社できなくなったマネージャーが数人いましたので、私も精神的に脆かったらメンタルをやられて休職していたかもしれません。
そのような辛い時期を支えてくれたのは、中村天風氏の著書「運命を拓く」(講談社文庫)でした。
この本を座右の書としていつも携帯し、毎日の通勤電車の中で読んでいました。
1冊はボロボロになるまで読み込み、2冊目もかなりくたびれるくらい読み込みました。
⇒ 【ブログ】 私の人生を救ってくれた書 「運命を拓く」(中村天風)

その頃は、非常に苦しい時期でありましたが、天風氏の言葉は魂に響き、潰されそうになる自分の心を支えてくれていました。
本当にこの本のお陰で乗り越えることができました。
中村天風氏はヨガ行者で悟りを啓いた方です。
そのような立派な方の本だけあってこの「運命を拓く」という本はとてもエネルギーが高く、読んでいると無意識のうちにパワーを貰うことができます。
九州のある有名なリゾート地の山にある物件を調査しに行ったその帰り道、博多駅近くの小さな書店で氣に関する本を初めて手にしました。
この本がきっかけとなり、私の氣と関わる人生はスタートしたのでした。
その時は何も思いませんでしたが、その地には現在の師匠・仙人師匠のテンプル(寺・修行場)があり、現在私は毎月満月の時にその山を訪れ師の下で修行をしています。
面白いことに、師も中村天風氏には傾倒していたのでした。
当時はそのような遠方の山深くに毎月飛行機で通うようになるとは夢にも思いませんでした。
おそらく、その山に入り将来は一緒に修行をすることとなる師匠の波動に共鳴し、帰り道に氣の本を手にしたのではないかと考えています。
人生というものは実に不思議だと思います。
気功の達人 故・千葉久之先生との出会い
中村天風氏の人生哲学には心を積極的に運用する幾つかの技法があります。
その中の一つが「手鏡暗示法」です。
それは簡単なもので、自分はこうありたいという理想像を鏡に写る自分に向かって強い気持ちで断定的に語り掛けるというものです。
それを毎日やっていくとその暗示が潜在意識に刻み込まれ、人生が自分の思うようになるという仕組みです。
実際、自分の人生を創り上げているのは他でもない自分自身です。
不安や心配が多い人は、自分のそのような希望(?)通りに人生は展開していきますし、プラス思考・積極的な心を持つ人は障害も難なく乗り越えて天馬空を行く人生を送ります。
ベンチャー企業に勤めていた頃の私は手鏡に向かって、「巨大なホテルを幾つも経営する経営者になる」ということを恥ずかしげもなく唱えていました。
その当時の夢は、そのような現実的な欲望だったのです。
そんなある日のことです。
いつものように朝起きて、鏡に向かっていつもの願望を言おうとすると、
「私は人の魂や人生を救う者になる」
と口を突いて出るではありませんか!
その時のことははっきり覚えています。
そのような高尚なことは考えたこともなく、
「あれ??? オレは何言っちゃってんだろう?」
と不思議に思ったものです。
しかし、それからはホテル事業に関係することは口から一切出ず(というか出せない感覚)、鏡を見ると「私は人の魂や人生を救う者になる」と言っていたのです。
しかし、その当時の私は人を人と思わない程、低俗で自己中心的な人間でした。
だから、まったく人を救うも何もなく、今の私から言わせると「まずはお前が自分自身の人間(人格)を作ってからだ、人を救うのはそれからだ!」と説教したい位なものでした。
そのようなことが起きていたある時、氣の力でがんの患者の命を救っている故・千葉久之先生をたまたま知りました。
その衝撃は頭をガーンと打たれるくらいの大きなものでした。
千葉久之先生はその当時から気功の達人として知られていた気功治療家です。
「手から出る氣の力だけでがんが治るのか!?」
「なんだそれ!?」
と信じられない思いでした。
いてもたってもいられず、訪問してお話を伺ってみると証拠が幾つもあり嘘を言っている訳ではありませんでした。
千葉先生の治療院は、お客様の直筆の体験談が治療院の壁一面に張ってあり、それはすべて筆跡が異なっていて本当にお客様が書いたものでした。
がんだけではなく、うつや自律神経失調症、身体の痛みまで気の力で癒していたのです。
しかも、やっていることは実にシンプルで手から氣を当てているだけです。
千葉久之先生は他の治療家や医者が治せないものでも自分にかかれば治すことができるという絶対的な自信と実績を持っていました。
更に驚天動地だったのは、習えば私にもできると言うではありませんか!
「水野君もできるよ」
と千葉久之先生はおっしゃいました。
「本当か!!!」
この言葉には強烈に心を揺さぶられました。
「この先生と同じことができるようになるのか!!」
「信じられない!」
それからというもの、何としても千葉久之先生と同じ生き方をしていきたいという思いが頭を離れることはありませんでした。
「気功というのはそんなにも凄いのか!」
「なぜそのような素晴らしいものが世の中でほとんど知られていないのだろう?」
「気功の凄さに対して、現代医学って一体何なんだ?」
もう、頭の中は価値観がひっくり返るような状態です。
他にも千葉久之先生のような凄腕の気功治療家はいるだろうかと探してみましたが、その当時はご縁がなく巡り会えませんでした。
数人の気功治療家の先生に菓子折りを持ってお会いしてお話を伺いましたが、千葉久之先生程のお力はなかったようでした。
おそらく千葉先生は氣功の世界でも断トツに能力が高い人だったと思います。
今の私よりもずっと高いレベルでしょう。
千葉先生は天台密教の寺院で修行し、氣の力を身につけた方です。
その密教寺院では、氣の力で病気を癒すことができる僧が何人もいて、その人たちは日本各地を巡り気功治療をしていたそうです。
治療費は無料なのですが、お布施を頂く仕組みで、お布施の額によって相撲の番付のように僧侶が格付けされていました。
千葉先生はいつもそこで東の横綱であったと誇らしく語っていました。
要は、たくさんの人を治し、そのお礼のお布施がたくさん集まっていたということです。
当時の私にはわかりませんでしたが、千葉先生は神人合一の境地に入った方だったようです。
気功修行中のある日のこと、千葉先生は大量に吐血して、それがバケツ一杯になったそうです。
それはおそらく不浄な血液だったのでしょう。
神仏が人に乗り移る前には、大病をするなど死ぬほど強烈な身体の浄化作用が起こることがあり、そのような反応だったと思われます。
「ある日、街を歩いていたら見ず知らずの人が近づいてきてこう言うんだよ」
「あなたのここ(脾臓辺り)には仏様が入っています」
「そうして、そう言ったっきり歩いて去ってしまった。そういうのがわかる人がいるんだなあ」
どの分野でも、そこで一流の人物になりたいと望むなら、その分野で最高の教師に習わなければならない。
教師を選ぶことは極めて重要であると私は常々考えています。
千葉久之先生は、非常にあくが強いお人柄でしたが、気功の実力は群を抜いていました。
気功治療家として独立する道を決心する
「千葉久之先生に入門したい!!!」
その思いは強くなりましたが、現実にはそうは問屋が卸しませんでした。
なぜなら、その教授料が莫大に高かったからです。
千葉先生は天台密教を学んだ方でしたが、密教の世界は伝授料が高いのが通例です。
私が水野氣功塾で教えている金額とは全然違います。
昔の密教の世界では、伝授料が家一軒分の金額になることも珍しくなく、それでもその初期投資はその後に回収可能であると考えられていました。
重大な密教の法は、億単位で取引されると聞いたことがあります。
そこまで高額ではありませんでしたが、千葉先生の教授料はそれでも当時の私にとって極めて高く「絶対無理だ」と絶望的に感じられました。
当時の私は日々の生活に一杯一杯で、実際預金残高がほとんどありませんでした。
しかし、
「それを学べば自分も先生と同じような気功治療家としての生き方ができる」
「他の先生ではダメなんだ」
何としても、金策してでも、教授料を作ると決意したのです。
思い始めたら猪突猛進で、無謀にも借りられる所から借りまくってでもその道に入ろうとしていました。
その当時私は結婚して一児がいました。
家内は専業主婦です。
サラリーマンから独立起業をする、しかも自己資金なく借金をして気功治療家の仕事をする。
そのような無謀とも思える挑戦をすることを人には言えず、止むに止まれぬ思いを抱き、悩み考えていました。
そして、ある日会社から帰った夜遅く、家内に意を決し自分の思いを伝えました。
「退職して千葉久之先生に入門し気功治療家になるよ」
家内にとっては寝耳に水のことです。
家内はしばらく考えていたようでしたが、
「わかった。いいよ」
と二つ返事で了解してくれたのです。
このような話をされたら普通主婦であれば、
「あなた一体何言ってんの!? そんなことができる訳ないじゃない、何よ気功って!?あなたにできるの?明日からの生活はどうなるの?子供もまだ小さいのよ!バカなことは考えるのはやめて!!」
と間違いなく言うことでしょう。
この記事を読んでいる主婦の方は、突然真顔のご主人様から「仕事を辞めて独立して気功治療家の仕事をするからよろしく」と言われた場面を想定してみてください。
安定している会社を退職していかがわしい気功治療家の道を歩む、しかもいつ店を持てるかはわからない、収入のあてがない、幼子を抱えている・・・ということなので100人の奥様がいたら100人が反対してもおかしくない状況です。
できない理由や心配なことなど考えれば考えるだけ無限に出てきます。
実際、私の母は大反対で、動揺してパニックになり長文の手紙まで送ってきました。
その気持ちもわからなくありません。
独立するだけでも心配は尽きないのに、聞いたこともないあやしい気功治療を始めるというのですから。
今考えたら生活が早期に破綻することが目に見えているのに、さして心配することもなく快諾している家内は頭のねじが2〜3本抜けていたのか、眠くて頭がボーとしていてよくわからないまま適当な返事をしたのか、それとも許容量を超える予想外の出来事に脳がフリーズしたのか・・・とすら思えてしまいます。
ですが、家内は不思議と反対しなかったのです。
なぜ、反対しなかったのでしょうか?家内は何事も直感で判断するタイプだったので何か感じたことがあったのかもしれません。
あの時、家内が快諾してくれなければ、今の私は100%ありません。
このことについては本当に今でも家内に感謝の思いは尽きません。
(家内は2021年に彼岸へ旅立ちました)
その当時のことについて家内がママ友に話すと「よく許したよね」と感心される(あきれられる?)そうです。
しかし、やはり高額の教授料を工面することができず、千葉先生に入門するという夢を諦めざるを得ませんでした。
その時、やっと冷静になりました。
自己資金なく借金して独立するなんて・・・無茶苦茶リスクのあることをしようとしていたことに気付いたのです。
ベンチャー企業で立ち上げを経験してきた人がすることではないと。
そして、気功治療家になるという夢をきれいさっぱりと諦めて、再びサラリーマンとして事業を成長させていくことに意識を振り替え、仕事に没頭しました。
そして、数年が経ち・・・
これは天の配剤でしょうか。
しばらくして私にちょうどその教授料と独立資金位のお金が奇跡的にできたのでした。
人から借りたものでも、貰ったものでもありません。
それは私がそれまで手にしたことのない大金で、突然閉ざされていた扉が開いたような感覚でした。
そのお金のお陰で私は迷うことなく退職し、千葉先生に入門する決断ができました。
そして、そのお金は教授料と開業資金、事業が軌道に乗るまでの生活費でおよそ潰(つい)えました。
本当に見えない背後の力には感謝の思いは尽きません。
私はその時、次のような宇宙法則があることを知りました。
本当に何としても手にしたいものは手に入らない。でも一度断念して完全に諦めると、その後に手に入る・・・
これが真理だと思います。
いざ、気功治療の店を開業
千葉先生の下で修行をし、印可を授与され、いよいよ開業という段取りに入りました。
私は念入りに調査をして、さいたま市の北浦和駅前の物件の賃貸契約をして開業にこぎつけました。
しかし、開業をしてからが大変でした。
まったくという程、お客様が来なかったのです。
当時はまだホームページも持っておらず、予約は電話で受け付けていましたが、全然電話が鳴りません。
駅前に目立つように店舗を構えましたので、飛び込みのお客も入るものと想定していましたが、それも期待に反し全くありませんでした。
朝から晩まで店に一人でいて、1日誰にも会わなかったという日がたくさんありました。
「あぁ、また今日も誰にも会わなかったなぁ・・・」
「誰とも話さなかったなぁ・・・」
無力感と孤独感にさいなまれて、夜になって一人自転車で家路につく日が続きました。
当然、売上は立ちませんし、資金も段々と減っていきます。
事業の破綻が現実の色を帯びてきます。
この「誰にも会わずにじっと一人店にいる」ということは、本当に心身が疲労しました。
一日中施術をして疲れる疲労より、もっとドッと心底疲れる感じの疲労感で、「独立をしたもののやっぱりダメなのか・・・」という不安感や絶望感が強かったのです。
それでも店で一日ボーッと過ごしていたわけではなく、ホームページを作成したり、広告を出稿したり、チラシを作ってポスティングをしたり、できることはすべてやりました。
9月に開業して、12月を迎え年の瀬の時期になりました。
依然として客足はほとんどありません。
施術料も今よりずっと安く、30分3,000円で施術をすることもありました。
「このままじゃホントにマズい・・・」
是が非でも稼がないと家族を路頭に迷わせてしまいます。
どうしようもなく不安が昂じ、見えない力におすがりしたいという気持ちになり、Sさんというスピリチュアル・カウンセラーの下を訪ねました。
そして、悩みである仕事のことについて相談をしたのです。
そうしたら、
「3月からお客が来ます。それから一生途絶えることはありません」
と言ってくれました。
そのお言葉に力を貰って、3月まで全力でやっていこうと一層仕事に励みました。
すると、不思議と3月からお客様が来るようになり、段々と増えてお陰様で生活をしていけるようになりました。
あの時、Sさんにお会いして、その言葉を頂いていなかったら、どうなっていたことか。
「本当にありがたかったなぁ」と今でも思います。
(Sさんはその後地方に引っ越しました。今は相談を受け付けていないということです)

それからの20年・・・
気功治療家の仕事は売上の最大化を目指すビジネスと違って、自身の技倆を高めてお客様を癒す職人の仕事です。
従業員数が増えたり、店舗数が増えたりする訳ではないので、発展しているようには傍から見えないとは思いますが、それでも私の氣は着実に進化し、技能も向上してきました。
氣という見えないものを扱う仕事だけに、来院するお客様も非常に珍しい病気や信じられないような霊障もたくさん経験してきました。
私は、その意味で、巷(ちまた)の治療家さんが遭遇することのない不思議な体験をし、口にするのもはばかられるような多くの修羅場をくぐってきました。
40代の終わりには身体を壊したこともありました。
家内も先立ち、生活が一変しました。
コロナになってまったく客足が途絶えたこともありました。
コロナ後はワクチンの影響もあり、人々の健康状態が大きく変わりました。
よくぞこれまで命があったものだと思います。
それもひとえにシルディ・サイババなど見えない神仏のご加護のたまものだと感謝しています。
その一方で、仙人師匠という稀代の聖者との縁ができ、毎月師の下で修行を重ねています。
仙人師匠と一緒に行ったインド、ヒマラヤ、バリ島など海外での修行も思い出深く、特にヒマラヤの「神の村」のプリースト(神官)の修行は、自分の能力が大きく飛躍する貴重な恩寵をいただきました。
実に神の作ったシナリオは摩訶不思議だと思わずにはいられません。
そして、多くの生徒さんやお客様、たくさんの仕事の仲間たち・・・そのような良縁に恵まれてそれがありがたく、本当にお金には換えられない貴重な財産だと思います。
たくさんの人を愛し、愛される人生を送れるのは、幸せな人生だと実感しています。
私はこれでよいと慢心したことは一度もないので、これからも修行を重ねてより多くの方のお役に立てるよう精進していく所存です。
また、遠からず地方に修行場を持ち、護摩祈祷をして日本や人々のためにお祈りをする仕事を始めたいと思っています。
今後ともご愛顧いただけますよう宜しくお願い致します。