世間一般には、成功が人生の目標として認識されています。
一概に自己の成功だけを志向して果たして良いのかどうか・・・その意味を今回は考察したいと思います。
さて、何をもって成功とするか・・・それは人それぞれ違うでしょう。
全国に店を展開する
会社で出世する、部長になる
収入を月300万円にする
素敵なパートナーを得る
テレビに出て有名になる
・・・等々
成功は、自分がそうなりたいという理想像でもあります。
そして、成功している他人を見て、人はその人を羨望の眼差しで見ます。
成功した人と自分自身を比較すれば羨ましく感じるかもしれません。
しかし、一概に成功すれば人生の勝者となって、自分だけハッピーでいられるのでしょうか?
その答えは、NOです。
私は気功治療家としてこれまで2万人以上の人を見てきましたが、その中には大変なお金持ちや著名人もいました。
そうした方々を見る中で奇妙な事実に気付きました。
それは何かというと、なぜか本人やその家族の中に大きな問題があることが少なくないという事実です。
最初は偶然かと思っていましたが、そうではない気がします。
例えば、本人が大病をする、奥さんが難病をもっている、子供が重度の半身麻痺である、夫婦関係が破綻している・・・というような問題です。
成功が大きければ大きい程、反作用の問題もまた大きいのではないかと思うこともありました。
これは成功と関係あるのでしょうか?
己の成功をひたすら希求することで、自分自身や家族や親しい人に問題が生じるなど歪(ひず)みが出るという可能性はないのでしょうか?
成功や自己実現は、現代に生きる多くの人が当たり前に考えているかもしれませんが、この様な思考法は西洋的で表層的かつ独善的な印象を受けます。
東洋の思想はもっと広大や深遠な流れというものを重視しています。
確かに自分が何か大きなビジネスで成功した、巨額な収入を得た・・・となれば有頂天になってしまうかもしれません。
それが多くの応援者によって喜ばれる形で実現したのであれば良いでしょう。
しかし、誰かが犠牲になり、誰かが不満や怒りを覚える様な形で実現したのであれば、それは一概に喜べる結末にはならないのです。
競合他社を蹴散らしても自分だけ勝者になれば良いと考えるのが、世間の常識です。
敗者は市場から退場すべし、これは当たり前といえば当たり前です。
しかし、競合他社の多くの従業員、そしてそのまた多くの従業員の家族に悲惨で悔しい思いをさせてまで自分らだけ勝者になり甘い汁を吸ってもよいのでしょうか?
例えば、競合他社を駆逐するために、わざとその店の目の前の立地に新規出店する。
街中でそんな醜い市場での戦いをみることは珍しくありません。
その結果、力が劣る会社がやがて潰れるのです。
会社内で権謀術数を弄し、競争相手を陥れてまで自身が出世をする。
それも珍しいことではないでしょう。
そうした他者の犠牲に成り立つ成功は、自分自身や家庭や家系のどこかに歪(ひず)みを生じ、問題の禍根を残す形となる可能性があります。
具体的に多いケースでは、子供の中でも弱い子に病気や精神障害、ひきこもりなどの問題が現れます。
または、子の代だけでそれが清算できなければ、孫の代に問題が生じます。
成功者本人が大病をしたり、大怪我をして障害が残ったりしたのも見てきました。
歪(ひず)みが自分自身に生じ、本人が代償を負うのであれば、それは因果応報と言えます。
しかし、本人ではない家族、子供や孫がそのつけを負わなければならないとすれば容易に看過できません。
成功を希求するとしても、綺麗な形でそれが実現できなければ果たして成功が良かったのかどうか判断がつきかねます。
エゴに基づいて、我良しの発想で成功へと突き進んでいきますと、周囲からは良くは思われませんから、段々と人相が悪化していきます。
人相・顔はその人の生き方の通信簿です。
鏡を見て、「なんだか最近の私は顔つきが良くないなぁ」と思える様なら、何か考え方や生き方が間違っていると判断した方がよいでしょう。
人には思念というエネルギーがありますので、強く継続的に念じていけばそれが現実化していくものです。
特に思念が強い人はそれが顕著です。
つまり、思念が強い人は「現実化しやすい=成功しやすい」ということですが、それは正しく使わないと、人生という流れの中に歪みが生じるのです。
何か問題や事故や怪我が生じた時に、人はそれを偶発的なものとして考え、なぜそれが生じたのか深く考えることはありません。
なぜなら、その因果関係の答え合わせができないからです。
しかし、よく観察してみると、日常の些細な出来事にしても、自分自身の行為の応報が現れていることを発見することができるものです。
答えがないからといって、考えない様にするのではなく、関連性を見出す思考法を持つことをお勧めします。
例えば、家族が熱を出した、大きな怪我をした・・・という時、よくよく考えてみたら「会社で人間関係のいざこざがあった後だった」という不思議な関係性を見出すことは難しくないはずです。
歪みは因縁と言うものです。
本人が原因で種を播いたとしても、それを刈るのは必ずしも本人とは限りません。
本人の力が強く、因縁を撥ね返す力がある場合は、家族や家系の弱い人に現れるのが法則です。
自分自身の成功というエゴを求める余り、代償を払うのは賢明と言えない生き方です。
昔から東洋の思想では「分を知る」ということがあります。
または、「足るを知る」という考え方もあります。
成功者を見ては羨ましくなったり、そうなりたいと思ってしまったりするのかもしれませんが、人にはそれぞれ器というものがありますし、生き方は違うのです。
自分らしい生き方を貫くのもまた価値のある生き方であり、美しい生き方です。
自分自身の繁栄だけを希求するのではなく、家族や子供、または孫という家系が大過なく発展していくのも一つの成功の形です。
家族や子孫が愛に満たされ幸せに生きられるのが何より素晴らしいと思います。
自分自身のエゴを肥大化させる行為で、大切な人に禍根を残さないように考えることは極めて大切なことです。
自分自身の分を超えた成功・繁栄より、自分も含めて3代末の孫の代まで大過なく幸せでいられるような生き方を志向するのもまた賢明で立派な生き方で、それもまた成功ではないかと思うところです。