一流の芸術ほど良い気を放っている

今日は絵画や書画、日本舞踊や能などの古典芸能、音楽などの芸術の価値の真髄についてお話しましょう。

先日あるサイトを見た時に、「ゴッホのひまわりの価値がわからないから専門家に聞いてみた」という企画がありました。

たしかに、絵画や書画などの芸術品は、一般の人が見て何が素晴らしいのかさっぱりわからないということがあります。
私もかつてはそうでした。
絵画で写真のような写実的な画風なら上手いか下手かわかりやすいですが、ピカソの絵なんて小学生の落書きみたいだし、「あげるよ」と言われても飾りたくないから「いいよ」って断ってしまいそうになります。

ゴッホの絵は今や1枚100億円の価値がありますが、生前は1枚しか売れなかったというのは有名な話です。
つまり、ゴッホが生きている時代は、その絵の価値がわかる人がゴッホの周りにいなかったのです。
当時は情報が今のように拡散しないので、存命中は絵の評価ができる人の目につかなかったのだと思います。

戦国時代は茶の湯の文化が広まっていて、茶器一つが1国に相当するくらいの価値を持っていたこともありました。
松永弾正久秀といえば、二度も織田信長に謀反を起こした戦国の梟雄(きょうゆう)ですが、彼は信長が所望する平蜘蛛という茶器を持っていて、信長が「それを渡せば許してやる」と条件提示していた逸話があります。

ゴツゴツした茶碗が一体どうしてそれ程の価値があるのか?
「茶碗なんて100均で買っちゃダメなの?」と思う人もいるでしょう。
多くの人はわかりませんが、その価値がわかる人がいて、それをまた別の価値がわかる人と価値観を共有していたのです。

芸術品の価値は、その目に見える形状もさることながら、それから感じ取られる目に見えない気(エネルギー)というものがあって、それに価値を見出していると言えます。

世の中には、無意識的にも顕在意識的にも気(エネルギー)が分かる一定層がいて、それらの人々は自身の感覚で物の真贋を見極めています。

骨董品屋にはその主人が収集した物が陳列されていますが、得てしてそれは高価な物が多いです。
一般人にはなかなか敷居が高い空間です。
その価値が分かる分限者(金持ち)が店を訪れ、骨董品屋の主人と対話して購入しますが、それは共に共有できる価値観や感性があるということになります。
その意味では分限者の方が、真贋(しんがん)を見極める気の感性が研ぎ澄まされていて文化的であると言えます。
彼らは見えない力を感じ、数々のインスピレーション(直感)を得て、現在の地位にまで到達しているのでしょう。
値段が高いだけで価値が低いものを身にまとったにわか成金は、その感性が備わっていませんから大きく違うところです。

本もある意味芸術品です。
本には著者の気(エネルギー)が投影されていますので、私は手に取ったり見たりして気を感じて購入の判断をしています。

生徒の一人がこう言っていました。
「文章にはその人の言霊が反映されています。優秀な編集者はその言霊を無意識に感じ取り、取捨選択して編集できる霊媒的能力があるのでしょう」

まさにその通りだと思います。

邪気祓い開運堂の製品もそうですが、気がわからない人は何でこんな物にこんな値段が付いているのか皆目わからない。
しかし、気の感覚がある人は、その価値がわかっていて、商品が手元に着いた時に「これはスゴイ!」と感動を覚えるのです。

先日読んだ高倉健さんの本の中に次のような一節がありました。

(仕事を選ぶ基準は)組織でも金でもありません。人です。人と人の間にある「気」です。「気」は目には見えないものだけど、生きる力をもたらしてくれる。

これを読んで、あの健さんも気がわかっていらっしゃったんだと納得しました。
高倉健さんは、そのたたずまいだけで周囲の人が圧倒され敬意を払ったというという大人物です。
いぶし銀の渋みを醸し出して、女性のみならず、同性の男性も魅せられてしまう魅力がありました。

一流の芸術作品には、その製作者の魂や感情の気(エネルギー)が投影されています。
それを感じ取って、人は素晴らしいと感動するのです。
その感性がない人は、価値がわからず、それゆえにチープで無価値な物に囲まれて安っぽい生き方を送っています。

私はピアノの名演奏を聴くのが好きですが、音楽のセンスもないし、そのいろはもわかりません。
しかし、奏者によってピアノの音楽の調べに乗る気(エネルギー)が全然違います。
私が好きな奏者は、演奏する曲の気(エネルギー)が素晴らしく、演奏が終わる頃には魂も身体も浄化され、サッパリと身体が軽くなります。
それだけではなく、時には意識がトランスに誘導されることもあります。
それはやはり会場という同じ空間で聴く必要があり、CDやYouTubeなどの音源を通してではかなり減殺されています。

芸術家など諸芸の道を歩む者であれば、製作の技法をいくら学んでも一流には到達しません。
ピアノ奏者で言えば、曲目を譜面通り間違いなく正確に弾いたとしても、それだけでは聴者の魂を揺さぶることはできないのです。

やり始めの初心者の時期はもちろん技法は大事です。
その技法を習得し、何度も何度も作り直しては捨て、また作り直すという孤独な作業の中で、次第に人格が醸成され、それが作品に投影されていきます。

何度も何度も嫌という程繰り返す、その量をこなす作業の中で、徐々に魂が磨かれ独自の感覚が開かれていきます。
それゆえに感性や感度というものは、人間の価値に相応する重要な指標になるのでしょう。
そして、最後はその人そのもの、その存在が作品であると私は思います。

私もまだまだ未熟で無骨で角がありますが、少しずつでも人格を磨いていきたいと思っています。
精進、また精進の毎日です。

【参考】
気で真贋(しんがん)を見極める

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