11. 死ぬ時にわかる・・・人生は夢

スピリチュアル的な概念では、私たちはあの世という魂の故郷からこの地球に降り立ち、数十年の人生を体験し、やがて故郷に還っていくと考えられています。

死はこの世界では悲しみですが、死は生の一部で悲しむべきものではありません。
ただ、来た所に戻って行くだけです。

死ぬ間際になると、走馬灯の様に人生を振り返ると言われます。
そして、その時には人生はまるで夢を見ていたかの様に短く思えるのでしょう。

それは有名な戦国武将の辞世の句にも表れています。

〇豊臣秀吉/享年61才

豊臣秀吉
豊臣秀吉

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪花なにわの事も夢のまた夢」

(意訳) 露が儚く消えていくように、私の命も消えようとしている。
一生を振り返ってみれば、全ては夢の中で夢を見ているような儚はかないものであったことよ


【出典】https://www.10000nen.com/media/21929/

〇上杉謙信/享年49才

上杉謙信
上杉謙信

「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」

(意訳) 人生とは、一時の夢を見ているようなもの。栄耀栄華も、酒を飲んでいる間の戯れのようなもの


【出典】https://www.10000nen.com/media/24198/

生きるか死ぬかの乱世を生き切った戦国武将の人生は、私たちの人生より余程濃厚で激動の人生であったと言えるでしょう。

そのような人生を生ききった戦国武将が共に人生を夢と例えたのは、過酷な生存競争の中で人生の真理を会得していたからかもしれません。

日常に振り回されて生きているとその最中(さなか)にはわかりませんが、人生の幕引きにはまるで夢の様に思えるものです。

人生は、生誕から死まで、まるで時間が直線的に進んで来たかのように思えるものですが、それはおそらく錯覚です。

時間の感覚というのは、この地球における特有の感覚ではないかと感じています。
つまり、次元が異なる世界に行けば、時間というのはまた違った感じで捉えられるのではないかということです。

人生を振り返って見ても、記憶はすべて断片的であり、あらゆることを直線的な時間軸で回想できるものではありません。
人生を回想した時に、思い浮かべられるのは印象的ないくつかのシーンでしょう。

たとえば、

小学校の時、家族旅行をして嬉しかったシーン
母にひどく怒られ傷ついたシーン
おばあちゃんに優しく慰めてもらったシーン
中学校の体育祭で活躍して得意げだったシーン
大学受験の緊張したシーン
大学でのコンパでばか騒ぎしたシーン
彼女と出会ったシーン

などなど

時間
時間

時間は直線的に動いてきたように思えるのですが、回想するとその場面場面しか出て来ません。
それも時系列に出て来るものでもありません。

まるで水面下から泡(あぶく)が浮かび上がってくるかのように、記憶の一つ一つは出て来ます。
そう思うと、まるで記憶とは一つの泡(あぶく)のようなものです。

私たちは、そんな泡という名場面集をたくさん経験しながら、まるで映画の主人公のように生きてきました。
しかし、本当のところは「〇〇〇〇(※ご自身の名前を入れてください)」という映画を見ている一観客だったのです。

夢を見ていて、夢が直線的な時間軸の中で進んでいるとはなかなか感じられないことでしょう。
場面があっちに移ったり、こっちに移ったり、一貫性のないハチャメチャな内容として思い出されるものです。

この地球世界における体験も、実はそのようなものであって、未来も過去もありません。
只、今現在があるだけなのです。

いろいろな泡(あぶく)という記憶を体験してきたのが、この地球世界の人生であって、それが死の間際には

「人生は夢のようだった」

と回想されるのです。

夢のようだったのではなく、人生という夢をみているというのが本当のところです。

この世界で魂という一つの意識が様々な体験をして、魂の故郷に還っていく・・・それが生と死というものです。

死という肉体を離れた後も、その意識は継続し、存在は在り続けます。
死は存在の消滅ではなく、肉体を離れ新たなる生を得るための移行に過ぎません。
幼虫が蛹(さなぎ)になって成虫になるようなもので、単なる形態変化です。
死も生の一部・・・死を超えて人間は在り続けます。

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